レエン・コオト
1
声「男は、線路沿いを走っていた。闇は、刻一刻と迫ってくる。遠くの山々から火照りが消え始め、道はいよいよ心もとなくなり始めた。そんな中、男は、薄暗い藪の中の、細々とした道をひた走りに走っていた。草履はとうに捨て、素足にとがった石が食い込む。着物は汗で濡れ通る。そんなことも気にする様子はなく、男は闇から逃げ出すように駆け続けた。……やがて、男の周りは、完全な闇に包まれた。月明かりはなく、足元にあるはずの線路さえ見えない。男はふと、袂にマッチがあることに気づいた。マッチを一たび擦って、明かりを手に入れようとする。すると、男の眼の端に、透明の布が翻るのが映った。はっきりと目をやると、レインコートを着た男が一人、道の端に立っていた……」
男1の声「もしもし。……甲野芳子さん。いらっしゃいましたか。……はい。確かに、僕の呼んだお客様です。僕の部屋まで案内してあげてください。よろしくお願いします」
電話を切る音。
明転。
そこはホテルの一室。男1、1人で部屋の椅子に座り、冊子を読んでいる。
ドアのノックが響く。
男1、手にしていた冊子を閉じる。
男1「どうぞ」
女1が入ってくる。
男1「やあ、初めまして。あなたが、その」
女1「お初にお目にかかります。毎朝出版の甲野と申します」
男1「新原君の担当だった」
女1「はい。新原先生には、公私ともに大変お世話になりました」
男1「そうか。……このようなところへお呼び立てして悪かったね」
女1「いえ」
男1「遠藤良平といいます。新原伸輔君とは、高等学校からの友人です」
女1「遠藤さん」
男1「あなたのところも、その、お忙しい事だろう。あのようなことがあった後では」
女1「おかげさまで。遺作のみならず、過去の作品群にも増刷がかかっております」
男1「まさに、不幸中の幸いといったところかね。新原君の作品の多くは、君の出版社から発行されているわけだからね……おっと、このような言い方は不謹慎か」
女1「要件をお聞かせ願えませんでしょうか」
男1「すまないね」
男、いったん黙り込む。
なんとなく、窓の方に目をやる。
男1「甲野さん、新原君が亡くなってから、どのくらい経つかな」
女1「私の記憶が正しければ、ふた月ほどではないかと。四十九日はもう終わりましたし」
男1「そうか。……しかし、彼の小説家としての人生は、まるで機関車のようだったのだろうね」
女1「機関車」
男1「大学在学中、同人誌で才能を認められるやいなや、瞬く間に文壇の最先端へと躍り出て、数々の名作を織り成し、世の中を変えていった。まるで、産業革命ののちに誕生した機関車のようにね」
女1「そうです。新原信輔という存在は、日本文学界における産業革命のような存在でした」
男1「そうして十数年に渡る作家人生の頂点であろう今年、彼は三十五という若さで自殺し、この世を去った。ただ、ぼんやりとした不安という言葉を残して。いったいなぜなんだろう。小説家としてあれほどまでに精力的に活動していた彼が」
女1「才能を燃やし尽くしたからですわ」
男1「え?」
女1「先生は、普通の人が得られる日常や幸福を全て犠牲にして、小説家として生き、小説という芸術にすべてを捧げた方でした。そんな方が死を選ぶ理由はただ一つ。その才能を燃やし尽くしたからです。機関車に例えるなら石炭です。先生は、生まれ持った石炭を燃やし尽くし、完全に停止したのです。
男1「小説に、すべてを捧げた男……」
女1「これは、あらかじめ定められた運命のようなものなのです」
男1「才能を燃やし尽くすということが、運命だと」
女1「人には皆、寿命があるように、芸術家にもまた、才能の寿命があるのです」
男1「君はそのように、彼の死を割り切れるのか。才能に寿命があるとしたら、君はその彼の才能を看護する、看護婦のような存在なのではなかったのかい?」
女1「今日ここに呼ばれたのは、私を糾弾されるためでしょうか」
男1「そういうつもりはないよ」
女1「要件をお願いします」
男1「彼の死について、詳しく知りたいんだ」
女1、男1を見つめる。
女1「私が、何かを知っていると」
男1「……率直に聞こう。あなたは、新原君と、愛人関係にあったのではないかね」
女1「愛人」
男1「彼には新原綾子さんという奥さんがいた。しかし、彼は自宅とは離れたところに仕事場と称した別荘を持ち、そこには家族を近づけないようにした。そしてその仕事場に、足繁く通う君の姿が、近所の人たちから何度も目撃されている」
女1「探偵のようなことをなさるのですね」
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