萩の方
登場人物

萩の方
姉御前   萩の方の姉
ねね    萩の方に仕える女房
あの方   萩の方の夫。高い位に就く御人
中将    あの方よりも低い位の御人
夏萩    萩の方の息子

   場
宮中、萩の方のお部屋。部屋の御簾は昼夜問わず下げられている。部屋の中は綺麗だが、所々に何かを書き付けた紙が散らばっている。

   時
平安中期。卯月(四月)のある日。

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卯月(四月)の晴れた朝、萩の方の部屋。上手が部屋の入り口、下手が部屋の奥。萩の方は奥の床にふせっている。桃の花を付けた枝を持って来た姉御前と、応対に出てきた女房のねねが、離れたところで萩の方の様子をうかがっている。

姉御前: ねね、萩(はぎ)はずっとああなのですか?
ねね: はい。姫さまはずっと伏せっておいでです。(袖で涙を拭いながら)近頃は、いつも夢うつつというようなご様子でございます。お加減がよろしくても、お食事もろくろく召し上がらず、「あの方からの文(ふみ)はまだでしょうか?」とおたずねになるばかり・・・。
姉御前: あの方のお便(たよ)りはまだありませんか?
ねね: はい。もう幾月も。こちらにご公務でおいでになる時さえ、ほんの少しお立ち寄りになることすらございませぬ。お可哀想な姫さま。時折、わずかな希いを込めて、長いお文をお書きになります。けれど、あの方が返事をくださらぬことは、お姫さまもよくよく承知なのです。お文をお渡しになってすぐ、「ねね、あの方は今度もお返事をくださらぬでしょうね」とお言いになって、その夜は、袖の涙の乾く暇もなく、泣き明かしておいでなのです。
姉御前: なるほど。お父上がたいそうご心配あそばされていたわけです。これはなみなみならぬ魔の仕業のようですね。桃の花を見れば、気が晴れてくれるかしらと思ったけれど、それよりも高徳名高い阿闍梨様にご祈祷をお願いした方がよろしかろ。
ねね: いえいえ、ぜひ姫さまにお渡しくださいまし。お姉上様直々の贈り物を見れば、きっと姫さまもお喜びになりましょう。
姉御前: そうだといいけれど。
   (姉御前は萩の方の方へ歩み寄る)
姉御前: 萩。萩。
萩の方: ここにおります。
姉御前: ご加減はいかに?
萩の方: ごらんのとおりでございます。
姉御前: これ、見事でしょう。(姉御前は桃の花を差し出す)
萩の方: これは、桃の花。
姉御前: ええ。これであなたの邪気を払ってさしあげようと思って。
萩の方: 姉様。わたくしは決して魔に憑かれてなどいません。
姉御前: では、どうしてさようにうち伏しているのです? 物忌みでもあるまいに、そうしてお引き籠もりになっていらっしゃるのは、どうしてです?
萩の方: わたくしは、あの方からのお返事をお待ちしているだけなのです。
姉御前: もうずっとお通いになられない方のお返事を?
萩の方: あの方はお務めでお忙しいのです。たいへん位(くらい)の高いお方ですから。
姉御前: そうでしょうねえ。なにせ、あの宰相(さいしょう)殿(どの)のご息女といみじく仲睦まじくされていらっしゃるので、先日、右大臣様から直々にお叱りあそばされたほどですから。
萩の方: 宰相殿のご息女? 
姉御前: ええ、女房どもがやかましく噂していました。
萩の方: では、東(あずま)の受領(ずりょう)をしていらっしった方のご息女とは?
姉御前: はて、もうずっと前にお離(か)れになったとか・・・いえ、もう覚えがありませんね。なにせ、お噂の涸れないお方ですから。
(萩の方は扇で顔を隠して、すすり泣く)
姉御前: もういい加減になさい! あの方をお待ちになるのはもうお止めなさい。あなたはまだ隠居する歳でもないでしょう。いつまでそうしてご自分をお虐げになるのです?
萩の方: 姉様、わたくしは、意地を張ってなどおりませぬ。
姉御前: では、どうしてあの方をばかり執着されるのです? あなたをお慕いしている殿方は、他所(よそ)にもたくさんおられるのに。
萩の方: あの方はもうじきおいでになられるのです。ほら、聞こえます。
姉御前: 何が聞こえるというのです?
萩の方: 牛車(ぎっしゃ)の音。あの方の車の音ですわ・・・
   (牛車が表を通り過ぎる音が舞台に響く)
姉御前: あれは、祭事の牛車ですよ。あなただって分かるでしょう?
萩の方: いいえ、あの方の車の音です。わたくしには分かるのです。ああ、おいたわしや。あの方は、今日もお立ち寄りになれぬのを嘆いておられる。車の音を通じてわたくしの心にあの方のつらい心が響いておいでになる。
姉御前: 萩・・・
萩の方: ああ、萩は、萩は、いつまでもあなたをお慕い申しておりまする。どうぞ次はわたくしの許(もと)にお立ち寄りくださいまし。どうぞ次こそは去(い)って下さいますな。後生。どうぞあなたのお顔をわたくしに見せてくださいまし。萩はもうながくはありませぬ。このままはかなく消え失せば、もののけとなりて、あなた様をどこまでも追い続けることになりまする。ああ、執念深い女と思わないでくださいまし。ただ一度、ただ一度で結構なのでございます。あなたのお顔を拝見さえすれば、一切の妄執は晴れ、わたくしは清らかに果てましょう。ですから、も一度、も一度。・・・
(姉御前は上手に引き下がる。彼女とねねは、絶叫する萩の方を見ながら涙を流す)
ねね: お姉上様、どうぞ姫さまをお赦(ゆる)しくださいまし。どうか今日お目にされたことは忘れてくださいまし。
姉御前: ねね、護摩を焚いていただけるよう準備しておきますから、様子を見て、萩を寺に連れて行ってください。くれぐれも頼みましたよ。
ねね: はい。
(ねねは萩の方を介抱しに下手へ向かう。姉御前は上手に向かいながら、途中で立ち止まる)
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