松次郎の夢
 ようこそお運びいただきまして、ありがとうございます。
 素晴らしい音楽をお楽しみいただいておりますでしょうか?
 この世は一時の夢と申します。出来ることなら、粋で色っぽうて楽しい夢を
味わっていただけたら幸せなことやと存じます。
 私ですか?あ、私のこと見えてはりますか?ああ、そうですか、それはあり
が泰ことでございます。見えへんと言う方、お気になさらんようにお願い申し
上げます。
 ほんまのこと申しますと、私、この世のものではございません。
 毎年このお盆の時期になりますと、千日前から日本橋の界隈をうろうろしと
るものでございます。皆様もご存知かもしれませんが、この界隈、「よう出る」
といううわさの場所でございます。お江戸の昔には、この千日前は罪人の首を
はねる刑場であったということでありまして、いろんな方の恨みが残っており
ます。ですから偉いお坊様の方々が、ちゃんと御祓いをしてくださっておりま
す。とくにビックカメラや、アムザのあたりは有名でございますから、念入り
に御祓いがされとるわけですが、この黒門の界隈となりますと、私のような、
未練がましいものがフラフラーっと彷徨い出る隙があるんでございますな。
 そない申しましても私、首はねられた罪人でもなければ、お江戸の昔のもの
でもございません。
 明治の42年でございますか、この難波界隈に大火事がございまして、湊町
のあたりから、東は生国魂神社のあたりまで、一面の焼け野原になったのでご
ざいますが、そのすぐ後に生まれたのが私でございます。
 ほんで、私はあの世に籍を移しまして、しばらくしてから、またこのあたり
は一面の焼け野原になったのでございます。
 焼け野原と焼け野原の間にあった夢の花園、それが私の生きたこの千日前界
隈でございました。
 幸か不幸かこの私は、その一時の夢の花園とともに生まれ、そして死んだの
でございます。
 大火事のあと、この難波の復興を考えてはった何回の社長さんが、この千日
前に「楽天地」という建物を作りました。大きい劇場に小さい劇場に映画館も
ございまして、モダンな少女歌劇から漫才落語やらの演芸、それにメリーゴー
ラウンドからローラースケート場までございました。それはもう大人気の施設
ごありまして、この千日前は楽天地を中心としてたいそう栄えたのでございま
す。私が大きくなるころには、楽天地も廃れてきたわけですが今度は立派な歌
舞伎座ができまして、あいも変わらず千日前は栄えておりました。
 私はと申しますと、この難波のハズレに小さな小屋を構えまして、世話物芝
居の一座で、役者をやっておりました。
 世話物と申しますのは、街の人々の色恋沙汰やら心中話なんぞをいうわけで
ございますが、近松門左衛門の書いたものも世話物と申しますな。近松といえ
ば文楽、人形浄瑠璃で演じられるものでございますが、文楽はそれはそれで素
晴らしいものではございますが、私は生身の体でやってみたかったんでござい
ます。男役も女形も、そらもう、何でもやらしていただきました。まあ、小さ
な一座で身入りもええわけやなし、貧乏でカツカツの暮らしではありましたが
好きなことをやって生きていけるというのはそれは幸せなことでございました。
 それでも時勢がだんだんと悪うなってまいりまして、好きなことを好きなよ
うにはできんようになってまいりました。
 こういう芝居はやれ、こういう芝居はやるな、と毎日のようにいわれ、ウル
そうてかなわん。或る日憲兵がやってまいりまして、こんなことを言うわけで
ございます。
「貴様らはいつまでこのような軟弱な芝居をやっておるのだ!貴様には大和魂
というものはないのか!」
 思わず言い返してしまいました。「大和の魂言うたら大仏さんのことやおま
へんか。長州薩摩の田舎もんに大和魂の何がわかるっちゅうんじゃ!」
 今から考えたら、軽はずみな上に、エライ失礼なことを申しました。長州薩
摩ゆかりの方に何の恨みがあるわけではございません。ただ、当時のというか
今でもそうかもしれませんが、政府や軍のエライ人に、長州薩摩の方が多かっ
たもので、思わずそんなことを言うてしもうたわけでございます。
 それからほどなく、私は「アカ」の疑いをかけられて、憲兵に引っ張られま
した。ほんまのところ、「アカ」も「アオ」も「シロ」もなんもわからんので
すけれど、散々に殴られまして、もうちょっと体を鍛えとったらよかったんで
すが、そないな色男でもないくせに、金も力もなかりけりでございまして、殴
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